日本人はどうしてタイ人を『信じる』のか
今日はタイにいる知り合いから
「タイ人に貸した120万バーツが返ってこない」
という愉快なメールがあった。
そのタイ人は俺が「前々職」で働いていた会社の社員なので何故か俺に
前々職の会社の社長に言って給料を差し押さえてほしいとのこと。
どうしてタイ人に120万バーツも貸すのだろうか?
この知り合いは「ケチ」な方で、たびたび俺を無償で何かさせようとしてくる。
関わると遠慮なしにいろんなことを無償で押し付けてくるので、出来るだけ関わらないようにしている。
そんな「ケチ」な知り合いがどうして無担保で120万バーツもの大金をタイ人に貸したのだろうか。
そもそも日本国内において日本人同士であっても400万円という金は担保無しでは貸さない。
というか貸してくれと言いづらい。
それ以前に貸せるような金も無い。
ということで日本人はどうしてタイ人を信じるのかを考察してみる。
理由① タイ人にお金を渡しやすい環境
タイの夜の街では売春斡旋施設が非常に多く、セックスの対価としてお金を払うことが当然のように行われている。
バービアでは俺のような加齢臭オヤジと若い女性が楽しく会話をする対価としてチップやドリンクが発生するのは当然のことである。
というようにサービスの対価をタイ人に支払うことに慣れている日本人。
これに対して日本では「送料無料」「無料アフターサービス付き」というように「商品そのものの値段」にその後のサービスや付帯作業の手間賃が含まれていることが多い。
日本人が提供する「サービス」そのものにお金を払う機会は少ないし、仕事を請け負ったり商品を購入した後、追加でお金を要求することは「良くないこと」とされがちである。
このような商習慣に慣れた結果、
「タイ人にお金を支払うことに抵抗が無くなり、日本人にお金を支払うことには抵抗がある。」
という心理が生まれる。
タイ人にお金を渡す=善
日本人にお金を渡す=悪
なんでこいつはこんなにケチなのに「タイ人にお金をだまし取られた」というヤツは多い。
理由② 信じることは良いことという幻想
ワタシを信じて!(เชื่อฉัน チュワチャン!)
タイ人は良く言う。
日本語に訳すと「私を信じて」となるが、そもそも『信じる』のニュアンスが日本と異なる。
日本とタイの文化の違いを踏まえて「チュワチャン」の意味を正確に訳すと【私の言うとおりに従って】だと思う。
技術的な問題解決方法の議論の最中に「เชื่อผม 」を連発するヤツが多かった。
経験的・技術的に考えてあり得ない案なのでどう考えても【俺の案を採用して】としか理解しえなかった。
タイのドラマの中で自分より目下の相手に「เชื่อผม 」と言われても申し出を却下する場面が多かったように思う。
「ワタシを信じて!」という申し出に、矛盾や理不尽を感じても『เชื่อ=信じる』という訳から【信じてあげないのはかわいそう】という思考を日本人が勝手に解釈して相手の言いなりになってしまう。
こういった理由でタイ人に金を貸して返してもらえない日本人は今後も増え続けるに違いない。
この知り合いに対して俺が贈る言葉。それは สมน้ำหน้า
ソムナムナァ = かわいそうだね。俺が助けてあげる。という意味ではない。